「沢登り」から韓国とのつきあいが始まった。

1999年2月 「沢登り」から韓国とのつきあいが始まった。
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最近、韓国が僕に近い。主語を間違えたかな。僕は韓国に近くなっている。何度か行ったり、韓国映画をみたり、MLでいろいろな人の情報を読んだり………。

生死をともにした連帯

5年ほど前、OBS(日本アウトバウンド協会)の体験セミナーに参加した。これは一種の企業内研修で「自然に立ち向かい、仲間たちと自然の強さを感じ、連帯を感じ、自分を発見する」プログラムであった。

2泊3日のプログラムで、川口湖の西湖付近を舞台に野外訓練を行い、沢登りは丹沢まで車で飛ばして行った。7~8人のメンバーだったがその中に、韓国のLGグループの教育担当が2人参加していた。生死をともにするこのプログラムは連帯感を強くする。この韓国人と仲良しになったのが韓国とのつきあいの始まりである。

誘った方が払う。

セミナー終了後新宿に戻りみんなで飲みにいった。結構高いバーだった。1次会で飲んでその勢いで行ったバーだった。当然、割り勘のつもりだった。しかし、精算の段になって、彼等には金を払うという姿勢が全くみられない。しかたなく(にこにこしながら)、金を払った。あとで、韓国では(中国も同じだが)誘ったほうが金を払う、という習慣があることを知った。これが僕の韓国の異文化体験だった。

その後、僕の方から韓国に行ったのが2年前の冬だった。居酒屋で飲んでその後カラオケにいった。「韓国ではカラオケに女性を呼ぶとすごく高い」と言っていたが、飲んで歌っているうちに盛り上がり「呼ぼう」となった。若い娘が2人きて、飲んで歌って踊って楽しかった。金は彼がはらった。しかし僕は買ったばかりのカメラを店に忘れてしまった。深夜そのカラオケバーに泥棒がはいり店の売り上げ金、僕のカメラなど盗まれてしまい、今も戻って来ない。彼はカードで払っていたから、あれはきっと引き落としされずに済んでいるに違いない。

どうも韓国と収支バランスを考えると、いつも僕の方が持ち出しになる。この他にもいろいろあって・・・・・。

友達がいると韓国は楽しい。

彼の家は奥さんとお子さん二人の幸せそうな家庭だ。ソウルから南15キロほど行った大きい団地で、20万人くらい住んでいるという。その分譲団地は全室オンドルが通っており板の間でも暖かい。しかもすごく広い部屋である。近くの国の住人だが、僕の住まいの様式とほとんど変わらない。何か不思議な空間の共通性を感じた。

韓国に着くと電話カードを買う。そして彼の家に電話をする。異国に行って、電話できるところがあるのはやはり心に落ち着きが出る。数日の滞在のなかで、アポをいくつかとり、空いているかなり多い時間を使って、映画、ミュージカル、音楽、本や、バー、食堂などを楽しむ。結構贅沢な僕の時間だ、
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# by xiyuannei | 2001-01-03 05:54 | 日常生活は発見がいっぱい

In the heat of the sun (太陽の少年)で発見した陶虹

1999年2月 In the heat of the sun (太陽の少年)で発見した陶虹
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この映画は1997年、大阪で観ました。

文化革命当時、北京市内に住む少年たちの生活を描いた映画です。大人、学生たちは地方に追いやられ北京は少年たちが自由に遊ぶことができる空間。「歴史の断面」を少年と少女の関係を通して描くこの映画は、時代劇ものの中国映画を観ることが多かったので新鮮でした。

1999年2月、杉並国際交流協会主催でこの映画鑑賞会があり、これにはぜひ行きたいと思って行ってみました。理由は、昨年11月に観た「黒眼晴」によります。

「黒眼晴」の主人公である陶虹が、「太陽の少年」に出演している、との情報をもらったのは現代中国映画研究会からでした。全然知りませんでした。それで、それを確かめるべく今回映画を観たのです。

「太陽の少年」のなかで陶虹はペイペイ役。結構、登場回数が多かったのですが”確かに彼女だ”と確信できたのは、最後の方で誕生日で食事会をするシーンだけでした。

私が中国映画に触れたのは最近のことですが、きっとこんな”追っかけ”をやって、だんだん中国映画にはまっていくのかもしれない。

□主催事務局が作った映画あらすじがあったので紹介させていただきます。

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「In the heat of the sun 」(太陽の少年)

In the middle of the 1970's , the city of Beijing became a utopia for street kids since grow up were absent, forced to work in villages or join the Army. The children cut classes, smoked cigarettes, and fooled around the looking for girls. Among them was Xiaojun, the hero. He was an expert at duplicating keys. At the beginning of summer, Xiaojun sneaked into an apartment room and found a photograph of a beautiful girl older than himself. He fell in love with her---. While confrontation between his group and a rival group became increasingly hostile, Xiaojun kept looking for the girl. Finally, one day, he found her. She was Meilan, the legendary beauty. Xiaojun asked her to become his sister, but she refused, saying she disliked hoodlums. Nevertheless, his sincere love for Meilan gradually melted her heart, and the summer spend with her gave Xiaojun unforgettable. In the meantime, his grandfather committed suicide. Xiaojun left Beijing with his parents to attend the funereal. When he returned, he had found Meilan changed. She had turned her affections to the leader of the group. Xiaojun was afflicted with jealousy, but still could not forget his love----.
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# by xiyuannei | 2001-01-03 05:53 | 映画・ドラマは文化の凝縮

晩秋、快晴、快適ハーフマラソン

1998年11月 晩秋、快晴、快適ハーフマラソン
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万博公園で「98吹田万博国際ふれあいマラソン」と「98吹田国際交流フェスティバル」が行われた。

久しぶりにハーフマラソンに参加した。このふれあいマラソンは参加できる種目の幅が広く、まさに市民のマラソンになっている。10キロ、3キロ、2キロ、5キロ、ハーフの5種目あり子供から親子連れまでいろいろな人が自分の力と好みに合わせて参加していた。 ハーフは12:30スタート。10時にランニング仲間のKさんと受付付近で待ち合わせ、紅葉と太陽を浴びながらゆっくりと時間と空間を楽しみ、出番を待った。

さて、今回の記録は1時間35分10秒。32~33分台を狙っていたので予定よりちょっとタイムオーバー。ハーフマラソンのコースは公園を4周する周回コースでそんなにアップダウンもなく走りやすかったのだが、最初からスピードを抑えたのがまずかったかな、という反省。しかし、大会に参加すると気持ちが高ぶり、「よし、今度は・・・・。あのペースで」と考えてしまう。

スタートすぐ横の広場には17程のブースがあり、そこでいろんな国の人達が食べ物、小物を販売していた。タイランド、スリランカ、メキシコ、ベトナム、インドネシア、韓国などだ。

国際交流とマラソンを組み合わせたこの「第15回吹田市民健康づくりフェスティバル」は、34万市民のニーズを実現する企画の一つとして定着しているようだった。
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# by xiyuannei | 2001-01-03 05:51 | ランニングは楽しい

黑眼晴 ~リーホアは世界をみることができない。

1998年11月 リーホアは世界をみることができない。しかし世界は力華を見つめる
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現代中国映画上映会、この名前はInternetで知っていました。

いつも熱心に中国の映画を宣伝する会だな、と思っていました。この会の主催する映画会を日中友好協会の新聞で知り、6本の映画のなかで一番関心を持ったのは「瞳の向こう側」(原題 黒眼晴)。理由は簡単で、「走る」物語だからでした。

私も約5年前から長距離を走るようになりました。趣味ですが、それ以来「走る」人に関心を持っています。この映画もその流れで興味を感じました。

「盲目の少女力華(リーホア)は、とあるきっかけで障害者の陸上を指導するコーチにスカウトされ陸上短距離の選手となる。コーチの指導のもと順調に力をつけ優勝し世界大会に出場する。リーホアは世界をみることができない。しかし世界は力華を見つめる。そして彼女とコーチの間に築いた信頼の行方は-----。」(中国映画上映会B42つ折チラシより)。

いい映画でした。涙が何回もこぼれてきました。障害者が「走る」ことを通してポジティブに生きていく。社会的な関係の中で「自分」を知り、その「自分」を悩みながら苦しみながら自覚していく。その自覚は、実は世の中で素直に生きて行くためのアイデンティティの確立のプロセス。多くの人に励ましを与えた映画だと思います。そして彼女(力華)の走りがすごくよかった。かなり走り方を訓練したと思います。

今回の映画は「この会が選んだ」とパンフに書いてあります。もし日本に持ってこなければこの映画に出会うことができませんでした。Thanks for Gentyuei.

主演女優の陶虹が上映の前に挨拶をしました。
終わってからも挨拶をしました。映画会場を出たところで、彼女にあえるかと思いましたが不在。受付の人に「彼女と握手をしたいんだけど・・・・・」とリクエストすると早速、陶虹を呼んでくれました。握手をして写真をツーショットで撮らせていただきました。
「走る」彼女の手は小さく柔らかく女優の手でした。
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# by xiyuannei | 2001-01-03 05:49 | 映画・ドラマは文化の凝縮

見えないが、不思議な秩序がある街マニラ

1998年11月某日  見えないが、不思議な秩序がある街マニラ
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98年11月、5泊6日という短いフィリピン旅行をしました。

フィリピンは初めて行った国です。今まであまり私の意識にはなかった国ですが、大阪からノースウエストの直行便が出ているのでマイレージを使い行ってみました。帰りは3時間6分。ビールを飲んで食事して映画を見てまたビールを飲むともう関空に着陸体制です。私のマラソン記録は3時間18分なので、走っている間に着いた感じでした。

行く前に予約を済ませてからメーリングリストを読んで思ったことは、「新聞ネタにならないように安全面で注意を払おう」ということでした。ホテル、迎えのタクシーなど全部E-Mailで予約したのですが、何せ18:30発、マニラの空港に着くのは21:40という結構危ない時間での行動。結果は無事に帰国できました。しかし帰りの飛行機でManila Standardを読んでいたら「Japanese guest falls from 5th floor of hotel」の見出しがあり、同室にいた若い女性にポリスが聞いたは話しでは「元気だし幸せそうだったけど・・・」と載っていました。何が起こるかわからないマニラ、無事に帰れてホッとしましたが、今までの海外旅行で一番緊張感を感じました。

5泊6日の生活は毎日が印象に残りました。

22日(日)夜、関空発、若干遅れて現地時間22:00頃マニラのNAIA空港(Paranaque)に着き、市内のPalm Plaza Hotel(A.Mabini,Manila)にチェックインしたのは23:15頃。でも、無事にホテルに着くことができました。空港の出口に私の名前がついたプラカードを持った男性がいました。出迎えの確認が出来た時は「やれやれ」と思ったものです。スロープを降りて完全に空港の外に出ましたが、夜のため周囲は真っ暗状態。「この状態で車をつかむのは難しいな」と改めて500ペソで出迎えを予約しておいて良かったと実感。

23日(月)お隣りのManila Midtown hotelでMayorのConference開催中なので覗きにいってみました。President Estradaが来るというので各ブースでは政府の各省庁が自分たちの仕事の宣伝をしていました。午後、フィリピンで、定年後のロングステイ提案をしている小松崎憲子さんとHeritage Hotelで待ち合わせ。フィリピン永住を考えているKご夫妻が調査のためにマニラに来ていて、私も一緒に行動させていただきました。小松崎さん宅を訪問して、マニラの生活環境、永住の条件などをナマに聞かせていただきすごく参考になりました。SMという大きなショッピングセンターも2箇所車で案内していただく。

24日(火)フィリピンメーリングのオフ会に参加。15日ほど前に「マニラのことなら何でも・・」というFさんにメールでホテルを頼みました。OKの返事とともにフィリピンメーリングリストがありますよ、という情報をいただき早速登録。そのオフ会が11月24日に開かれるということで参加申し込みしました。「ハンドルネーム○○の××です」で始まったこのオフ会はミスキタさんが幹事役。参加はKeikoさん、Misaoさん、Mさん、Oさんと愛娘、Fさん、Aさんご夫妻、Sさんご夫妻と二人のお子さん、Oさん。ここでも現地で生活しているビジネスパースンからリアルな話しを聞くことができました。

25日(水)オフ会の時、KさんとMさん(World Interactive Network System=WINSという、現地のケーブルテレビのキャスターの方)から、「明日、ゲストで招待しますから今回のフィリピン訪問の印象を話しませんか」とお誘いを受けました。即OKの返事をして、25日Century Park Sheraton Hotel(infront of Harrison Plaza)にあるRm506スタジオを訪問して、25分ほどインタビューを受けました。まさか、テレビに出るとは思わなかった。収録後、夜10時から12時まで放映された番組を見て、やはりテレビには似つかわしくない自分を発見。その後はSunette Tower Hotel(northpart of Makati Avenue,Makati)に1年以上ステイしているFさんと夜のマカティに飲みにいきました。

26日(木) 24日のオフ会の2次会はカラオケ。向こうのカラオケは一人ひとりに女性がつきます。しかも30名程いる女性から一人選ぶのだから、これは偶然の出会い。その時出会ったPerlitaと26日シャングリラホテルで待ち合わせしました。シネマスクウエアでボーリングした後、フィリピンの普通の生活、家庭に関心があったので彼女の家を訪問。Makati CityのSouth Cemboですが、タクシーが乗車拒否します。「運転手があまり行きたがらないようなところなのかな?」と思いながら、7~8台後やっとタクシーをつかまえました。彼女の家の近くに着くと集合住宅が密集していて道端ではたくさんの子供たちが遊んでいます。家はコンクリートで造った4軒続きの長屋で、道路から一番奥。1メートルほどの幅の道には洗濯ものが干してありそれを掻き分けながら着きました。家は一階、2階とも8畳ほどの部屋しかありません。そこに11人住んでいます。1階は居間でそこにテレビ、箪笥、テーブル、台どころがあり、その部屋にくっついて一畳ほどのシャワーとトイレがありました。なんとこの家に両親、お姉さん夫婦(2組)、その子供4人、全部で11人が寝起きしているのだ。「せまいけど・・・・」と言いながら連れていってくれたのですが、本当に狭い。でも住んでいる家族はみな元気いっぱい。笑顔で歓待してくれました。あたりまえですが通常はタガログ語、しかし皆、英語を話します。はじめてフィリピンに来たのに、マニラの家庭を直に体験できたことはラッキーでした。

27日(金)朝、7時半にはホテルを出て空港へ、ということで全くの移動日。


今回事前にしたことは、インターネット経由でホテル(2ヵ所)の予約、空港へのタクシー出迎え、25日のオフ会と小松崎さんに23日午前に電話する約束だけ。一日ごとの計画は何もつくらなかったのですが、振り返ると、一日一日良い体験ができたマニラ旅行でした。

それにしてもマニラは日本とは違う。

・デパートなど入り口には自動小銃をもった警備員が必ずいる。
・シネマスクウエアでは「街を案内してあげるよ」と日本語で話しかけてきたフィリピン人がしつこくまとわりついて、断わると腕捲りして入れ墨を見せて脅かしはじめた。
・マニラ市内はいわゆるポン引きが多く、街をゆっくり歩けない。
・メトロマニラは交通渋滞が激しく移動が大変。断水などもありいわゆるインフラ整備が弱く、これが経済活動効果を抑えている一要因にもなっていると感じた。
・マニラのBonifacio Driveを北上しながらランニングしたが、歩行者道路がないので走りにくく、途中横断した川にはごみがたくさん浮いていてそれがマニラ湾に流れていくという環境問題を感じた。排気ガスもひどく、鼻をハンカチで押さえながら歩く女性がずいぶん多い。
・カメラで街の風景を写したかったが、とてもカメラなどの貴金属を表に出せるような雰囲気でない。
・10000円の両替が空港の銀行で2900ペソだが、市中の両替屋さんでは3220ペソだった。
・マニラはいわゆるメトロマニラの一地域であり、通常はメトロマニラの表記でマカティなどいくつかの市で構成されており結構大きい地域をさす。
・メイドはほとんどの日本人が雇用しており月2000ペソから3000ペソの月給、運転手は4000ペソほどでいわゆる人件費が安い国である。(カラオケ屋のPerlitaは月5000~10000ペソの収入でそれで11人の一家を支えている。だからお金の借り貸しでとにかく生活をつないでいるということだった)
・○○Villageというコミュニティがたくさんあり、そこは街全体を柵で囲ってあり、中に入るには検問が必要。すなわちコミュニティ全体で安全を確保している。(逆にわれわれ観光客がいる普通の空間は必ずしも安全ではない)
・家賃はけっこう高く、オフ会出席のある人は一軒家で月4万ペソ(約12万円)の家賃、Kさんの自宅は2階建て170平方メートル位を1500万円で購入。

はじめてのマニラなのでレポート形式になりました。きっと、マニラおよびフィリピンにはこれからも行くことになると思うので特化したテーマで情報をアップできると思います。フィリピンのあの温暖な気候、5万ドルの積立で確保できる永住権。「アナーキー」と言えるほどマニラの複雑さと何かわかりませんが確実にある「秩序」。どこまで信じていいかわからない人の良さ。他の国にはない魅力を感じました。

いま流行っているというポップシンガー、APRIL"Boy"REGINO、Jessa Zaragoza、Gray Valenciano、Regine Velasquezを聴きながら・・・・・・・・・。(98.11.28)
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# by xiyuannei | 2001-01-03 05:47 | 旅・留学の雑感あれこれ

鼓童

1998年10月 鼓童
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明日は中秋の名月という素敵な夜に鼓童を聴いた。

18:00開演で19:30まで迫力ある演奏が続き音を身体で感じてきた。今回のプログラムは「族」「三宅」「風天」「千里馬」「八重の浮立」「木遣り」「大太鼓」「屋台ばやし」の8曲。鼓童は佐渡に本拠をおく集団だが、演奏活動は幅広く1年の3分の1を海外で、3分の1を国内、あとは佐渡で活動しているそうだ。海外では有名で今回も外国人が多数来ていた。

野外音楽堂なので、音響装置は使わない。人間がたたく太鼓の音が響きわたる。暗闇と静寂のなかで時には激しく時には静かに音を出していく。この迫力はとにかく聴くしかない。僕は鼓童のビデオを1個持っていてそれを月1回くらい聴いている。KODO Live at Acropolis,Athens,Greeceだ。音はいいが彼等のパフォーマンスがまたいい。太鼓の使い方、一人ひとりの個性と協働、踊り、音の組み合わせ、何とも言えない。ライブが一番、でもビデオで聴くこともおすすめたい。

今、鼓童は「ONE EARTH 一 ひとつの地球」というテーマで世界に向かって”文化の共存””日本の伝統音楽”というメッセージを伝えている。1981年、ベルリン音楽祭でデビュー以来、世界的規模で有名になった鼓童。日本にもいいものがあるんだ、と自慢したくなる太鼓演奏だった。
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# by xiyuannei | 2001-01-03 05:46 | 日常生活は発見がいっぱい

中国語会話レッスン体験

1998年9月 中国語会話レッスン体験
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今日は中国語会話教室に体験入学した。

受講は3人+私ともう一人女子大生の体験入学者。話しによるともう一人在籍しているようだ。講師は70歳くらいの年配の女性。クラスが終わってからちょっと話しをした。戦争時代に結婚。2年で夫に戦死で死に別れそれ以来、中国で2人の子供を育てる。28年間中国の学校で教師をして、昭和54年に日本(小樽)に来たという。日本では中国語を教えたり、日本語を教えたりしているとのことだ。彼女もあの戦争による被害者の一人。胸が痛む。

教師をしていたということもあるだろうが、たぶん、中国と日本の友好のために中国語のボランティア活動をしているのだと思う。テキストは「生活中国語」評論社。進めかたは受講者の一人がテキストの日本語を読み、もう一人がそれに対応した中国語文を読む、それを順繰りに全員が行い、その間読んでいない人は聴いている。その過程で四声などを間違うと講師が直ちに直してくれたり、黒板に漢字とピンインを書いてくれたりする。

僕も講師の教材のコピーを渡され、皆さんと一緒に勉強に加わった。このクラスは中級コースなので、僕にとって始めての単語があるが、幸いピンインが振ってあったので音読に加わることができた。終わってから、講師から「発音がいいですね」と言われ嬉しくなった。「そうか、この間、発音の練習を中心にしてきたけれど、結構、様になっているんだ」と。講師はハルピン出身とのこと。普通話の発音はハルピンと北京をあわせて2で割ったようにして作られた、と聞いている。だから、この講師もきっと発音にはこだわりをもっているのではないかと期待したい。

今日は申し込みができなかったが、きっと、受講者数が少ないので、クラス入は大丈夫ではないか。このクラスは10月6日から3月16日まで、20回(40時間)で16000円、1時間あたり400円という安さでこれは本当にありがたい。
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# by xiyuannei | 2001-01-03 05:45 | 中国語学習と周辺

3種の「人技」 

1998年9月  3種の「人技」 ~第1ステップ 英語、コンピュータ、ダンス
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僕がダンスとコンピュータと英語の3つ同時に関心を持ったのは80年代中盤だった。

アメリカのある協会の年次総会に参加した。4泊5日という長い総会で、いろいろなテーマで研修交流会を行う。その総会に参加して「これからは英語だな!」「それとコンピュータだ!」と思った。最終日に「アニュアルバンクエット」があった。これって何だろうと覗きにいくと、参加者がタキシード、素敵なドレスで盛装して軽やかに踊っているではないか。これにはさすがにびっくりした。というのは、日中の研修交流会では丸首のシャツ、原色っぽいシャツ、ジーパンなどを着た人たちが、いきなり(という感じだった)盛装するのだから。「これがアメリカ社会か~」と。事務局の女性が「踊ろう」と誘ってくれたが、一つも踊れない。いま考えたら、ジルバ、チャールストン、ワルツなど。これが、社交としての「ダンス」を実感した最初だった。「よーし、これから国際社会に旅たつには英語とコンピュータとダンスだ」と心のなかで思ったが、実際にダンスを練習を始めるのは7年もかかった。

日本に戻ってまず始めたのはコンピュータだった。

当時、流行った(一時、国民機といわれた)NECの98M2を買った。その当時で30万円。これはその頃の最新マシーンで、2HDが走り、一太郎などでワープロを打ったものだ。しかし、その数年後、アメリカで気がついたことが、確かにコンピュータはIBMおよびそのコンパチを含めMS-DOSの世界だが、「アーティスト」「ステューデント」を中心にマッキントッシュが数多く使われていることを知った。しかも、その使い勝手の良さは98どころではない。Macintoshは当時30万円(市販価格は50万円くらい)だった。決意してマックを買ったのが91年、Macintosh SEだった。これを買うとまもなく98が動かなくなり、それ以来NECとは遠ざかってしまった。こうして僕とマックとの長いつきあいが始まった。

さて、次に、苦労覚悟でとりかかったのは英語。

日本に住んでいて普通の生活を過ごす分には英語はなくてもすむ。しかし、ちょっと自分の行動を広げたり、情報の世界・友達の和を広げたり、知識を深めたりするにはやはり外国語の1つや2つ、使えるほうがおもしろい。その中でも世界的に使われている英語は日常的なコミュニケーション力ができる程度にはなりたいと思った。そんな訳で、英語の学習をスタートさせた。しかし、これは続けるのが大変。結局挫折した。改めて、始めるにあたって次のように整理をかけてみた。

日本人の誰もが「中学校、高校、大学と10年も英語を勉強したのに、何故、話せないのだろう」。きっとこれは、学校英語・受験英語の弊害がコミュニケーションとしての英語の習得を妨げているのだ。なぜなら、「訳読」・「文法」・「読解」という作業は日本語の思考で英語と日本語を置き換える作業をしているにすぎない。他方、「英語のシャワーを浴びよう」、「英語を1000時間聞こう」と、いわゆる英語環境を自分の周りにつくって英語に多くふれるという学習提案がある。時間はかかるが、結局自分の身体(耳とか感性とか)を変えるしかない。とにかく聴けなければ話せない。

日頃、力を入れてやっているのは”リスニングパワーをつける”ことだ。英語をやりたいと思う人に聞くと「話せるようになりたい」とは言うが、「聴けるようになりたい」と言う人はあまりいない。僕もその部類だ。しかし、コミュニケーションする姿勢にあたって”まず聴ける”ことが大事なのではないかということを知った。それからは、テレビ、ラジオの英語ニュースを聴いたり、洋画を意識的に見たりしてナマの英語にふれるようにしている。言葉は、今日勉強したから明日から外国人の言うことがキャッチ出来る、スラスラ話せるとはならない。もしかしたら、英語はダンスなどスポーツと同じなのかもしれない。日頃の練習量とその継続が英語に対する基礎体力をつけるのだろう。さあ、「英語はダンスだ!」。

社交ダンスとの出会いはアメリカだったが、手付かずだった。地域のボランティア活動をしていた時、文化企画として社交ダンスパーティを開催した。パーティにむけて10回ほどの練習プログラムも併設した。当然企画者の一人として僕も練習に参加。その企画は成功して、その後、練習プログラムの講師をしてくれた先生の元に週1回練習に通った。これが社交ダンスの始まりである。最初、歩くことさえも難しく、ステップどころではない。苦労した。でも「老後の楽しみのために今、基本を練習しているんだ」と言い聞かせて練習に励んだ。相変わらずの初心者レベルだが、少しづつ踊れるようになるとダンスパーティの楽しさがわかるようになってきた。途中、中断しつつも社交ダンスは僕の趣味の一つになった。これを始めてから、歩き方に気をつけるようになり、練習を通じて”猫背”がかなり矯正された。

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1998年11月 3種の「人技」~第2ステップ:通信、マラソン、中国語
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インターネット

その後やり始めたのが通信だった。最初はNifty,CompuServe などでもっぱらE-MAILと情報収集(Read Only )だ。始めて入ったのは外務省の外郭団体が運営しているAPICNETだった。それにしても今やインターネットを使って、世界中の人と通信できる環境にあるのだから便利なものだ。

TIME誌でsyberSpaceの世界を紹介していたが、コンピュータと通信のおかげで世界はすごく狭くなりつつある。かなり前シンガポールへ遊びに行った時「SIGNETを構築する」と新聞で読んだのを思い出す。その頃のThe Straits Times(JUNE,17,1995)にBT goes on Internet という見出しのニュースがあった。続けて、INTERNET users all over the world can now track business developments in Singapore and around the region, with the inauguration of Business Times(BT) On-line on Thursday. Also, introduced was AsiaOne - Singapore Press Holdings' World Wide Web home page. Business Times On-line offers almost all of BT's Asian news reports, opinion columns and features. With this, BT hopes to add an international readership. とあった。

すなわち、シンガポールでは、インターネットを日常生活(ビジネスを含めて)で活用する。そこでBroad Catch, Broad Cast,Person to PersonのMAILの世界がほぼ構築されているようなのだ。INTERNETの共通語は英語。シンガポールは狭い、「統制」国家と言われながらも英語を公用語にしているという環境が、グローバルな規模で進んでいるINTERNETをいち早く取り入れたオープンな国と言えたのだと思う。

(これを書いて、NIRAが出した「21世紀 日本の課題」(三省堂)という本を思い出した。そこでは21世紀の国際社会の中で日本の生きる道は何か。それは情報(流通)を資源とした国家=日本ではないかが結論だったように思う。その中で、シンガポールも情報を資源としながら生きる国家であろうことが指摘されてた)

そんなことで、インターネット活用は僕の生活の中でなくてならないものになった。それにしても、シンガポールで見たときからまだ、数年しかたっていないのにこの世界の進歩はすごいものがある。

マラソン

95年の3月、ロサンジェルスにフルマラソンを走りに行ってきた。結果は3時間50分24秒だった。はじめてのフルマラソンだ。最後まで走れた自分に感動したマラソンだった。 LAマラソンは1984年のロサンジェルスオリンピックで使ったコースを翌年から市民マラソンとしてスタートして第10回目だった。約2万人がフルマラソンにエントリーしていた。アメリカではホノルルマラソン、ニューヨークマラソンに次いで大きいマラソンである。

友人、知人でマラソンを始めた人がいて、その人たちに触発されて94年1月からジョギングをランニングに切り替えて練習をはじめた。しかし、月に50~60キロ程度の練習量で100キロを越えたことはない。友人から「マラソンは月に100キロでは後退、200キロで現状維持、300キロで記録が伸びる」と言われてから、月間の練習量を150キロ前後までのばした。朝とか土・日走るが、150キロでも結構大変だ。週に40キロ位だから、朝5キロ走を数日やり、土・日に10キロとか20キロ走る。

走り込みはじめた時は、腹が痛くなったり、膝が痛くなったり、くるぶしが痛くなったり、足の爪が黒ずんできたり色々身体に障害がでた。それは練習量に応じて治っていくのだが、また新しい”痛み”が出てくる。自分の身体、精神の弱いところが壁にぶつかった時に現われるのだろう。だから、この壁との付き合い方をうまくしなければならない。それは「壁がきたら飛躍のまえぶれだと思おう」「スランプがきたら次のステップが目の前に来ているのだと思おう」と自分に納得させることだ。そうして、練習を続けていくと痛みは克服されていく。

市民ランナーはフルマラソン(42.195キロ)を3時間以内で走ることを夢見ながら日頃練習して、マラソンレースという舞台にでる。しかし、サブスリー(3時間を切る人のこと)になれないまま人生を終えていく市民ランナーが圧倒的だ。僕もサブスリーを目標にしているが、おそらく難しいのではないかと・・・、もっと若いときからランニングに接する機会を持てたら・・・悔やむ。しかしこれってしょうがない。ダンスもそうだった。もっと若い時からやる機会があったらどんなに速く身につけることが出来たことか、日頃、練習をしていて感じる。

ランニングはすごく気軽にできるスポーツだ。しかし、まだ日本ではマラソンをやっているというと”特別人間”的に見られがちだ(すごいですね~、でも何のために・・・と)。だから、ランニングをやっている人がその良さを他の人に伝えることが大切なのだ。「走る」~これは人間には「歩く」と同じほど生活の中での基本的な動作だ。しかし、この「走る」があたりまえ過ぎて自分と関係のないところにあると思ってしまう。観る対象として、オリンピック・陸上競技場、テレビのなかのマラソンレースとか。

ランナーに関するメジャーな雑誌で「ランナーズ」という雑誌の編集長に以前お会いした。彼女は自ら走りながら雑誌編集の仕事をしている。まさに趣味とビジネスを一緒にやってる人だ。話の中で、「日本の若い人は自分の生活のなかにランニングをうまく取り入れていない。女性の場合、きれいになろうと思うなら走ることはすごく素敵な素材なのに」という旨のことを言っていた。

外国ではランニングは日常生活の一部になっている人が多い。文化の違いとは言え、日本で欠けているものの一つではないか。21世紀に向けて我々がスポーツとどのように付き合っていくのかは、生活文化として、すなわち、スポーツライフを生活に溶け込ませてしなやかなライフスタイルをつくる上で必要なのだろうと思う。

中国語

さて、最近、関心を持ち始めたのは中国語の学習だ。中国は仕事の関係もあり、関心の持ちよう(いわゆる動機)が強くなった。まず中国を好きにならないと中国語学習も力が入らないし身についていかない。意識的に中国の映画を見たり音楽を聴いたりして関心を高めている。中国人と会う機会もつくろうとするがこれはチャンスがなくて難しい。ラジオ、テレビで自己学習をしようと思ってもなかなか続かない。やはり学校(教室)に行って、他の人の学習体験と先生から刺激を受けないと発奮しない。98年からは中国語教室に通い始めた。

英語もおぼつかないのに中国語も始めるとは・・・・結構無謀のような気もするが英語は若いうちにやっておくもの(もう遅い・・・?)、中国語は高齢者になって勉強していても恥ずかしくない外国語というイメージがありこれからの自分のライフワークの一つにしていきたいと考えている。永くつきあえるものがまた一つ見つかった。
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# by xiyuannei | 2001-01-01 06:35 | 日常生活は発見がいっぱい